昭和40年06月29日 朝の御理解



 信心を段々、させて頂けば頂くほど、皆が助からなければならないという事を、私に例えば、縁のある人達、私の周囲の人達、一つの問題が起きても、その問題の中心になる人だけが、助かるのじゃなくて、その問題にからんでおる人全部が助かっていくと、そういう助かり方に、あれも立ち、これも立ちというような立ち方。片一方の顔をつぶして、片一方のほうの顔だけがが立つと、いったようなものではなくて。
 もう本当に四方円満、波風が立たずにおかげを頂いて行くと言う様な、おかげを頂かねばならんなと思うのです。それにはどうしても私は、愈々もう一遍もう一遍という訳じゃないですけど、改めて四神様の御教えを頂かねばならん。大海の様な信心をせよと仰るから。大海のような信心をせよと。大海には鯨が棲もうがと。竹の筒に水が溜まったような信心をするから、頂くおかげも、ぼうふらが涌くような、そんなおかげであって、大きなおかげを願うなら、大海のような信心をせなければならんと。
 大きなおかげを願う願わんは別としてです。やはり心が豊かで、大きゅうなりませんと、只今私が申しますような、あちらも立ち、こちらも立ち、そして自分も立つと。四方円満に、おかげを頂いて行くという事は出来ん。四方円満に、その、おかげを頂いて参りませんとですね。例えば、これが、一つひとつのまあ、最近団体で助かるといったようなことを申しますが、確かにこの、団体の助かりがなからなければです。
 大きな事は出来ないと思うですね。個人が幾ら頑張ったところで、やはり、ほんなら、百斤なら百斤しか持てんのですから、ね。やはり千斤ぐらいのものを持ちたいならば、どうでも十人のものが、百斤もっておる力をフルに出し合わなければ出来る事じゃないと。そこで椛目の御造営の場合なんかでも、それを思うですね。あんまり信心が小さいお互いが。誰がどう言うた。彼がああいうたから。
 自分の庭だけやるなら、やってみら良かたい。それをこのごろ非常にそれを、特にこの一両日感じる。何のため椛目で信心しよるか。何のため椛目の総代でござい、役員でございというような顔しとるか。何のために信心しとるか。こと此度の御造営という事の場合なんかは、それこそ神の願いが叶うというのである。叶おうかと言う様な大事な事に取り組んでおるのに、それこそもうそんな奴は辞めてもらっても良い。
 と例えば言いたいような気がするのです。私それを見たり聞いたりしてから。けどそれでは、今、全部の誰も立ち、彼も立ちとどう言う様にもなろうけれどもです。そう言う様なものを引き立てて。心に今の信心を生かしていくのが本当じゃなかろうか、本音ではなかろうかと、いうふうにです。やはりお互いがそれを、そういう意味合いに頂くごつしとる人達がおるとするならば、ね。
 おかげを頂き合っていかなければならない。話し合うて行かなければならない。ね。そして、自分たちの考え方はこまかった。自分の考え方は一方的であったというふうに、お互いが分かり合うてです。そして、お互いの持ってる力をフルに発揮できるようなお繰り合わせを頂いていかなければ、これは、胸の奥に置いてでも、おかげは受けられないと私は思うんです。
 例えば、椛目に何百戸の御信者さん方がです。立ち上がらなければ、また、本気で立ち上がらなければ、例えば、今度の御造営なんかというものの、御造営なんか出来る筈が無い、「ね」。そういう雰囲気が、第一、総代幹部にあるということをもう、ほんとにしんどうてたまらん。今朝まで、しんどうてたまらんと言うとって、腹立てとったって仕方が無い。ま、ここに、本当に、いよいよ、大海のような信心させて頂かにゃいけんなという事を痛感するのです。
 と言うてほんならその、ただ、自分の心の中にです。大きく抱いておくというだけでは無くてです。それも助かって行かねばならんというところに信心があるです。もう、そげんして落伍して行くもんは仕方なかたいと言うもんじゃ無くてです。私昨夜休ませて頂く時に家内が、あるここの、御信者さんのことで、ほんとにもう、おかげば頂ききらす人は違いますばいち言う。何の話ばしよるかと思うたら、もう、私も聞いて、ひやっとするごつ聞いたんです。
 ところがですね、ほんとにあのう、普通言うてそれを聞けば、あのう、ほんなごつなら、もう、おかげ頂ききらんもう、どんこんしよが無かねと、こういうところでしょうけれども、私は、何かほんとに、自分の子供がなんか悪いことをした、なんか初めての罪でも、その犯した時に、親が聞いたらこげな気持ちがするのじゃなかろかという気持ちがした時に、私は、おかげ頂くと思うた。そして、結局はほんなら、卑しくも私を親先生と、こう、言うて下さる方達なんだから「ね」。
 これは、誰彼さんが、おかげ頂ききらんとは当たり前といった様な思い方ではなくてです。本当に、俺達が、平身低頭、神様にお詫びして行く以外には無かねて言うて、まあ、家内もそこんところが、段々、反省物が変わったようで、ま、そのう、そうですなというような事で、あのう、もう、その話は終わったんでございますけれどもですねえ。ここに沢山の御信者さんの中には、様々な人がやっぱりあるんです。
 あれだけは、手厚い信心をしてござるとに、どうしてそげなこつが、言うたり、出来たり、平気で出来るだろうかと。なるほど、おかげ頂きらん人は違うといったようなことだけでもです。実際私自身がです。それを聞かせて頂いてからです。それこそ、ひやっとする思いがしたという事です。やはり、私共のことの中に、こういう繋がりがあるなあと。これは、もう先生方の悪口を言われてては、ほんとに親が、悪口を言われておるように、感じるということはです。
 おかげ頂くと私は思ったんですけれども、ほんならこれは親子の繋がりだけではない、皆さんの周囲のことも考えて見なければいけませんよ。言うなら道の兄弟です。その道の兄弟のことを平気で、天井むいてつば吐くようなことでどうするか。誰がどうの彼がどうのと。お取次ぎを頂き、こう言う様な心へすがるものもおりますと。こう言う様なことで、気分を悪うしとるものもおりますと、例えて言うなら。
 どうぞ、それではね、折角の、有り難い雰囲気が、有り難いおかげに、雰囲気が無からなければおかげになって参りませんから、そこんところを取り次いで頂いて、どうぞ誰々さんも、彼彼さんも。(まつだん?)を揃えて、信心が出けて、おかげ頂いて参りますようにと言う願いこそしなければならんのだけれども、困ったもんじゃあるなと。というような事ではです。
 例えばほんなら私が、昨夜その何か座るのにヒヤッとするものを感じたのにです。ね。兄弟がぞろうっと行った様な時にです。やはりそう言う様なものを感じるだろう、それを感じれれる様な仲にですね、お互いがならなければならんなとこう、私は感じたです。為には先ず私共がですね、大海の様な信心が先ず必要だという事。ただ大海というその大きな鯨の住む様なおかげを頂くことの為だけでは無くてです。
 四方円満に誰も彼も皆が一生懸命に、足並みを揃えて信心の稽古が出来るようなです。おかげを頂かねばならん、特に私は椛目で総代、幹部と言われる方達。朝参りの信心でも、椛目の信心を本当に身に付けて行きよりなさる方達だけでもです。それが出来たらです。それを、高揚して行くとか。その人達を、手を引っ張って行って上げれるとか、また、後押しをしてあげるとか、いわば信心のためにです。
 いわばして頂けれれるとか、もうそれはもう言うならですね、ほんとにあのう病気をしている。ほんなら病気なら病院に入院しているという事と同じ事ですよ。旦那さんが病気の時という時には、皆が一生懸命お祈りでもするでしょう。ですから例えばその一つの難儀な問題を、賦してもらったときにはです。皆がそう言う様な気持ちで私は、お祈り添えでもさせて頂けれるようなですね、信心こそお互いが身に付けて行かなければならんのではなかろうかと、ね。
 例えば御造営という、こうした大した事を踏まえての、現在の椛目でございますから、ね。ここんところをお互いが一つ、譲り合い祈りあい話し合いね。そして誤解があるなら、その誤解を解き合うてです。ね。本当の信心に進んでいかなければいけんのじゃないかと。皆さんの周囲にですよ、例えばほんとにもう本当にそげな事じゃおかげば頂ききらんはずじゃと言うような人達が、もしあるのを聞いたり見たりしたならです。
 私はその人達のために手を取り合い。その人達のためにお祈り添えをさせて頂けれるような信心を頂いたら、有り難いと私は思うですねえ。どうぞそしてあの人も立ちこの人も立ち、皆がおかげ頂けれるようないわゆる団体の助かりです。まあ本当にもっと大きく言いたいのですけれども、まあ実を言うたら椛目自体が、先ず助からせて頂くということ。ね。椛目自体の信者の中に、まあそんなことも有りますまいけれども、誰派彼派というようなものがあってはです。ね。おかげにならんと思うのですよ。
   おかげ頂きますように。